ブッダ物語43 因果応報
病人を世話するのと、私を世話するのは同じ
ある日、ブッダは、侍者のアーナンダと共に、僧院を訪れた。
そこで、病気で寝込んでいる僧侶の部屋に入った。
彼は、下痢で苦しんでいた。
苦痛がひどかったが、不潔であったので、誰も彼のことを気にかけなかった。
そこで、ブッダはたずねた。
「どうして、他の僧たちは、あなたの世話をしないのですか」
「私が皆の世話をしないからです」
ブッダは、アーナンダを呼び、一緒に病んだ僧侶の看病をはじめた。
湯をわかして彼の身体を洗うと、汚れたベッドから清潔なベッドに移してやった。
それが終わると、ブッダは他の僧たちを集めて、病気で苦しんでいる者の世話をするように説いた。
そして、「病人の世話をするのは、私の世話をするのと同じ事だ」と説いた。
平等性
この話には、ブッダが人を差別しないという平等性の上に立っていることと、
今自分に起こっていることは、過去の自分の行為によるものであることを説いています。
カルマ(業)ってやつですね。
まず、ブッダがいう平等性ですが、
この病気の僧侶がブッダだったらどうでしょう。
おそらく、弟子たちは、喜んで汚物を洗い、身の周りの世話をするでしょう。
しかし、彼は身分が高い僧侶でなかったから、皆が無視したのです。
これは、我々の日常生活でもよくあることですが、
人を見て行動するということです。
心当たりがある人は多いのではないでしょうか(私も含め)。
その人が自分にとって、利益がある人に対しては親切に、
利益が無い人に対しては、そっけなくしてませんか。
だから最後にブッダはこう言います。
「病人の世話をするのは、私の世話をするのと同じ事だ」
家族・尊敬する人 ↔ 嫌いな上司・自分の利益にならない他人
このように、人に対して、差別しないことが、ブッダに近づく一歩なのでしょう。
因果応報(いんが・おうほう)
もう一つ気になるのが、僧侶が言った言葉です。
「私が皆の世話をしないからです」
これは、因果応報ということですね。
つまり、自分が人にしたことが、そのまま返ってきたというものです。
この人は、人を助けなかった分、自分も助けてもらえなかったということです。
仏教には、善因善果(ぜんいん・ぜんか)と悪因悪果(あくいん・あっか)という言葉があります。
善因善果は、善い行いをすれば、善い結果が生まれる。
悪因悪果は、悪い行いをすれば、悪い結果が生まれる。
ということです。
ですから、善い行いをしましょうね。
ということになるわけですね。
面白いのが、
善因楽果(ぜんいん・らくか)、悪因苦果(あくいん・くか)にならないことです。
つまり、
善因楽果は、善い行いをすれば、楽しい結果が生まれる。
悪因苦果は、悪い行いをすれば、苦しみという結果が生まれる。
少し考えてみて下さい。
特に、悪因苦果の方。悪い行いをすれば、苦しみという結果が生まれると、
苦しみという結果を受けた人は、行いが悪くなり、永遠に苦しみを受けることになりますね。
つまり、
苦しい → 悪い行いをする → 苦しい → 悪い行いをする
の無限ループになってしまうわけです。
これじゃ、悪人さんは、永遠に悪人さんですよね。
ですから、
善い行いには良い結果(善因善果)が、
悪い行いには悪い結果(悪因悪果)が、
という風になるのです。
当然と言えば、当然のような…
善い行いをしましょう!