ブッダ物語46 世の中に批判されない人はいない
すべての人に良く思われたい。
これは、誰もが持つ希望です。
しかし、「100人いたら、100人に好意的に思われる。」
そんな人は、世の中に存在しません。
どんな素晴らしい人でも、その人を批判する人が必ずいます。
今回は、そんなエピソードを紹介します。
もくじ
スッピアとブラフマダッタの話
あるとき、ブッダは、一団の僧とともに旅をしていた。
少し後から、別の教団の苦行者、スッピアと弟子のブラフマダッタが同じ道を旅していた。
2人は歩きながら、ブッダとその教義や教団について議論していた。
スッピアは批判的だったが、ブラフマダッタは若者の情熱をこめてほめたたえた。
その夜二人は、ブッダの一行と同じ宿に泊まった。
ふたりの議論は続き、一部の僧がそれを耳にした。
自分たちがそのような批判の的になっていることに驚き、翌朝仲間同士でそれについて話し始めた。
やがてそれを耳にしたブッダは、次のように説いた。
「諸君、人々が、私と私の教えと教団を批判するのを聞いて、
どうして悲しんだり、腹を立てたりするのか。
そのような怒りや悲しみは、ただ君たちの克服の妨げになるだけだ。
批判されて気を悪くするなら、どうしてその批判の妥当性を正しく考察することができようか。
私たちが批判されるときは、相手の言い分をよく吟味して、間違いを探し出し、理由をあげて指摘しなさい。
同じように、誰かが私たちについて好意的に話すときも、決して大喜びする理由はありません。
正しいことだけを認めて、その理由を告げなさい。
結局、たいていの人は、どうでもいいことやささいな行為について私を褒め称え、
本当に大切な事柄で私をほめることは決してありません。」
アトゥラの話
同じようなテーマの逸話が、サーバッディーに住んでいたアトゥラという熱心な在俗の信者についても残されている。
彼には、たくさんの友達がいたが、ある日説法を聞きに行こうと皆を誘った。
何も語らないレーヴァッタ
彼らはまず、レーヴァッタという僧に出会った。
うやうやしく挨拶したのち、説法を期待してそばに腰をおろしたが、
レーヴァッタは、ひとり瞑想にふける寡黙の僧であったので、アトゥラたちに何も語らなかった。
詳しく語るサーリプッタ
がっかりした彼らは立ち上がると、説法の第一人者として有名なサーリプッタ(舎利弗,しゃりほつ)に会いに行った。
サーリプッタは喜んで彼らの願いを聞き入れ、仏教哲学に関してくわしく長い説法をした。
しかしこれにもアトゥラとその仲間は満足しなかった。
むずかしすぎて、退屈だったのである。
均等の取れたアーナンダ
皆はもう一度別の説法者を探そうと考えた。
すると、アーナンダに出会った。
彼らはそこに来た理由と、レーヴァッタやサーリプッタから望みの説法を聞けなかった次第を説明した。
アーナンダは折衷案を試み、やさしい言葉で短い説法をした。
それでも彼らは満足せず、とうとうブッダのところへ不平を訴えに行った。
ブッダの説法
ブッダは次のように説いた。
「昔から他人を批判するのが、人々の常です。
「何も言わぬ人」も、「多く語る人」も、「そのどちらでもない人」も、他人の批判は免れません。
誰でも、たとえ王といえども、時には非難され、時には称賛されるものです。
大地や太陽や月も、集会で話している私自身でさえも、ある人には批判され、
また他の人にはほめたたえられます。
しかし、安易な非難や称賛などは、どうでもいいことです。
大切なのは、真に思慮分別のある人がほめるかどうかです。」
まとめ
一つ目の話は、人が批判する時、褒める時でさえも、そのような話をする人は、大切なことについて批判しているのではないということです。
つまり、人が批判する事柄は、いつもつまらないことです。
二つ目の話は、説法の難しさも説いています。
レーヴァッタ、サーリプッタ、アーナンダとが説法に挑戦しますが、
どれも相手は納得しませんでした。
すべての人が納得する解決法などありません。
また、ブッダでさえも、批判の対象となることも重要な部分ですね。
どんな人でも、どんな方法でも、どれか1つの答えが正しいことはないです。
ということで、人の批判にいちいち気にする必要がありませんね。
ちなみに、私は、ある問題に対して、2つの解決方法がある時、どちらかをすぐに選びます。
これは、「悩む」というストレスから解放されると共に、
どちらの答えを選んでも、必ずリスクがあるからです。
ですから、決断は早くし、それに対するリスク対策に十分時間をかけることをオススメします。