ブッダ物語48 自分の目線だけで物事を決めるのはダメ!
今回のテーマは、自分が正しいと思い込まないということです。
私たちは、自分たちの物差しで何でも決めつけ、間違った方向に行くことが多々あります。
しかし、それを異なった角度から、じっくり検証し直すと、本当の真実が見えてきます。
今回は、そんなお話を紹介します。
もくじ
象の話
ある時、ブッダが、サーヴァティーに滞在していた時、
たくさんの苦行者や学者が集まっていた。
彼らは、哲学上の問題を議論していたが、すぐに、マールンキャプッタを悩ませた疑問を議論し始めました(マールンキャプッタの話はこちら)。
- 世界は永遠であるか、無限であるか
- 肉体と精神は別々であるか
- 生きているうちに悟れるか
議論は、個人攻撃に発展する
議論はふっとうして、ついに学問的なレベルから、個人攻撃に変わってしまった。
とうとうブッダが仲裁を求められ、彼は次のような寓話によって、この問題を解決した。
象のかたち
昔、ひとりの王がいて、余興に、生まれつき目の不自由な人を大勢連れてこさせた。
そして、一頭の象を引き入れて、目の不自由な人達の真ん中に立たせた。
目の不自由な人達は手を伸ばし、身近にある象の身体の一部に触れるよう指示された。
その結果、ある者は頭に触れ、ある者は耳に触れ、ある者は牙に触れ、また別な者は鼻、足、尾などに触れた。
ひとりは、尾の先の房(ふさ)に触れた。
そこで、王は、目の不自由な人達に、「いったい象は何に似ていると思うか」と、順番にたずねた。
大きく堅い頭に触れた者は、「象はナベのようです。」と答えた。
耳に触れた者は、「穀物をふるうザルのようです。」と答えた。
牙は鋤(すき)べらを連想させ、鼻は鋤の柄(え)を連想させ、
足は柱を、尾はすりこぎを連想させた。
尾の先の房(ふさ)だけに触れた者は、「象は、ほうきのようです。」と答えた。
王はおもしろがったことは、これらの異なる意見の持ち主の間で、大論争が展開し、やがて殴り合いの喧嘩がはじまったことである。
ブッダは、真実の一面だけしか見ないで、全体を見たと独断的に考える人々も同じ事だと説明したのである。
足跡のはなし
森の中で、大きな足跡を見つけると、
素人は、それは「象の王の足跡に違いない」と考える。
しかし、熟練した猟師は、もっと注意深く足跡を観察する。
「このような足跡は、成長の止まった雌象(めすぞう)が強く踏みしめた結果かもしれない。」と疑う。
しかし、高い木の枝が象の肩で折られている。
それでも、象の王が通った跡とは考えない。
彼の疑問を解くじゅうぶんな証拠が見つかって、はじめて「やはりこれは象王の足跡だ。」と確信する。
このように、悟りの道においても、まだ耐えることが出来るかぎりは、「これが悟りである」と考えてはならない。
仏教では、この様に、めいめい自分で考え、悟りに達成することが重視される。
それには、「8つの正しい行い」(八正道)という枠組みが用意されている。
八正道
8つの正しい行いとは、次の通りです。
- 正見(しょうけん):正しい見解
- 正思惟(しょうしゆい):正しい思惟
- 正語(しょうご):正しい言葉づかい
- 正業(しょうごう):正しい行為
- 正命 (しょうみょう):正しい生活
- 正精進(しょうじょうしん):正しい精進
- 正念(しょうねん):正しい自覚
- 正定(しょうじょう):正しい瞑想
まとめ
まず、一つ目の「象のはなし」のポイントは、
どんなささいな口げんかや、高度な論争も、個人攻撃に変わるということです。
私たちも経験したことがあると思います。
はじめは意見の対立だったのに、最後には、「あいつの服が気に入らない」とか。
議論の目的とは全く違った個人攻撃になってしまいます。
これは、人間に、自分の意見をどうしても通したいという欲望があるからです。
気を付けなければいけませんね。
議論する時は、感情抜きで、その人を個人攻撃をするのはやめましょう。
2つ目の「足跡のはなし」も、とても大切です。
物事の真実を見極めるには、しっかりとした調査と思考が大切であることが説かれています。
これに対して、ブッダは1つのモデルを用意してくれています。
八正道というものです。
これらすべてを1度に守るのは大変ですが、
正語(しょうご):正しい言葉づかいは、今日からでも実践できるのではないでしょうか。