『台宗課誦』 お経 天台宗 法華懺法 漢文

『法華懺法』のはじまりはじまり

こんばんは。

本日から、『法華懺法』を読んでいきましょう!

まず、始めに、このような唄が読まれます。

我此道場如帝珠  十方三寶影現中
我身影現三寶前  頭面攝足歸命禮

「わたしのこの道場は、帝釈天の宮殿に飾られた珠(たま)が永遠に重なり合う世界と同じである。あらゆる方角の仏さま・経典・菩薩や僧侶である三つの宝が目の前に現れ、わたしは、今まさに、その真っ只中にいる。そして、三つの宝の御足(みあし)に自身の頭を付け礼拝(らいはい)しましょう!」

その道場は、神秘的な世界につつまれ、仏が目の前にあらわれ、いよいよ儀式の始まりです!

帝珠(たいじゅ)とは、帝釈天の宮殿に張りめぐらされている綱(つな)の一つ一つに結びつけられている珠(たま)を指します。それらは、互いを映し合うことで、それらの珠が無数に広がっていく神秘的な世界をあらわし、自身の道場は今、この帝釈天の宮殿ように神秘的な世界に包まれています。

帝釈天」とは、インドの神様であるインドラ(Indra)の中国名です。寅さんの「わたくし、うまれも育ちも葛飾柴又♪ 帝釈天で産湯を使い♫」の帝釈天です。

この唄が面白いのは、三つの宝の足に礼拝するところです。でも、おかしいと思いませんか。三つの宝は仏と、経典と、菩薩または僧侶です。「経典に足あるの!?」と思いません?

ですから、湛然(たんねん)という中国の偉いお坊さまの解説では、

我此道場如帝珠 釋迦牟尼影現中

我身影現如來前 頭面接足歸命禮 

 

「わたしのこの道場は、帝釈天の宮殿に飾られた珠(たま)が永遠に重なり合う世界と同じである。お釈迦様が目の前に現れ、わたしは、今まさに、その如来(にょらい)さまの目の前にいる。そして、お釈迦様の御足(みあし)に自身の頭を付け礼拝(らいはい)しましょう!」

と、「三宝」が、「釋迦牟尼」になっています。ここで「如来」は「釋迦牟尼」と同じ意味です。これなら、納得できますね。

また、鎌倉時代の高僧(こうそう)明恵上人(みょうえ・しょうにん)は、『四座講式』(しざ・こうしき)というものをお作りになり、次のように述べています。

 我此道場如帝珠 十六大聖影現中    
我等於彼大聖前 頭面接足歸命禮

三宝」が、「十六大聖」(十六人の聖者)に変わってますね。

つまり、「三宝」「釋迦牟尼」「十六大聖」などの、敬礼する対象は、自由に変えることができ、他の部分は定型文として使われていたことがわかりますね。

今日は、こんなところで、ではまた。

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